日食と神話

日食の神話

神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされていました。そして、近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきました。

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インドの日食神話

ヒンドゥー教の神話では食が起こる月の昇交点がラーフ(Rahu)、降交点がケートゥ(Ketu)という2人の魔神として擬人化されこの二神の働きによって食が起こると考えられていましたた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅?星・計斗星の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成しています。

中国の日食神話

中国では、ある日食の時に、酒ばかり呑んでいて観測を怠った罪で、観測係の羲和という男が斬首されたという歴史もあるそうです。古代中国では日食など天変を天の警告とみなし、「日蝕説」によれば「日者,太陽之精,人君之象。君道有虧,有陰所乘,故蝕。蝕者,陽不克也。」(仮訳:日は太陽の精気で、君主の象徴である。君主の道に欠ける所があれば、陰に乗じられることとなり、日食が起こる。日食とは陽が勝たないことである)といわれていました。そのため、統治者は天体観測を非常に重視し、豊富な観測記録が残されています。

北京天文台と日食神話

北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられています。「この彫刻の絵は日食の原因を説明している。金烏(太陽の象徴)の中心がヒキガエル(月の象徴)によって隠されている。漢時代の人々はこの現象を太陽と月の良い組み合わせと呼んでいた。」ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の烏(八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものです。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが伝わります。

夏王朝での日食神話

夏王朝では、日食は「天狗食日」といい、霊獣の「天狗」(日本の天狗とは異なる)が日を食べて起こるとされ、緊急に部隊を編成して銅鑼を叩き、天狗を追い払わなくてはなりませんでした。最も早い日食の記録は『詩経』「小雅・十月」の「十月之交、朔月辛卯、日有食之、亦孔之丑」です。統計によれば、甲骨文字の記録を除いて、春秋時代から同治11年まで(紀元前770年 - 1874年)で、記録された日食は985回(その内誤りが8回)で、日再旦(日の出の時間に日食が発生し、あたかも日の出が2回あるように見える)という現象の記録もあります。『乙巳占』で、李淳風は日食は天子が徳を失ったことの表れとしていました。日食はたいてい天子の死や国の滅亡を予告していて、兵乱や天下の大乱や死亡や失地を引き起こすといわれていました。発生する災害の種類は天象の具体的な表現から分かるとされました。例えば日食が上部から始まれば天子の政に誤りがあり、横から始まれば内乱や大きな兵乱が起こり、新たに天子が立つ兆しとし、下から始まれば妃や大臣が自ら恣とするとしていたのです。漢の張衡は、「靈憲」のなかで日食と月食に対して合理的な科学解釈を提出し、原理を説明をした。漢代の京房は水盆で日食を観測し、直接太陽を見ることによって目を傷つけるのを避けました。後代、水は油に代わりました。元代の天文学者郭守敬は、独自に開発した仰儀を用いて観測したそうです。

北欧の日食神話

北欧神話ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけていて、これが日食や夏至、冬至、幻日などの太陽にまつわる現象の原因と解釈されています。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうといわれています。他の文化圏では日月食は驚くべき、かつ恐ろしい現象とする場合も多くありました。クリストファー・コロンブスが西インド諸島に航海した際、服従の意思を示さない原住民を罰するために日食を起こしてみせて(実際は日食の起こる日を知っていただけ)、パニックになった原住民が彼に服従したというエピソードは有名ですが、文献上の証拠は難しいといえます。

イスラームの日食神話

コーランの第81章「巻きつける」に、日食を思わせる表現があります。

日本の日食神話

現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていませんが、天照大御神の天の岩戸の神話は日食を表しているとの見方があります。計算上は、邪馬台国の時期に日本列島で日食が2回起きた可能性があります。卑弥呼が死んだとされる247年と248年です。国立天文台の谷川清隆・相馬充らは、「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としています。

古代の文献などに記録されている日食

ここでは主に古代・中世以前の文献などに記録されている日食を取り上げます。

日本における文献上の日食

  • 628年4月10日(推古天皇36年3月2日):部分食 日本で記録に残っている最古の日食。『日本書紀』の推古36年3月の条に、「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」(三月の丁未の朔、戊申[7]に日、蝕え尽きたること有り)と記録されています。全文は近代デジタルライブラリー内『日本書紀巻二十ニ』(国史大系本第一巻)の205/300頁にあります。「日、蝕え尽きたる」は、当時の都である飛鳥京で皆既食が見えたように思わせるが、実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で、当時の飛鳥京では食分0.93程度の部分食であった。推古天皇は5日後の4月15日(3月7日)に死去している。 975年8月10日(天延3年7月1日):皆既食 『日本紀略』に「天延三年七月一日辛未、(中略)、卯辰刻皆虧 如墨色無光 群鳥飛亂 衆星盡見 詔書大赦天下(以下略)」(天延三年七月一日辛未[975年8月10日]、卯辰の刻に皆虧[午前七時に皆既]、[太陽は]墨色の如くにて光無し。鳥の群れ乱れ飛び、多くの星すべて見えたり。天下に大赦を発布す)と書かれていて、他にもこの食を記録した文献は多くあります。日本の首都で見られた史上初の皆既日食で、大事件であり、朝廷は天下に大赦を発布して、通常は対象にならない死刑囚まで罪を減じられています。中心食は中国の重慶付近で始まり、中国地方から関東地方を通りました。京都での食甚は7時48分(京都真太陽時)とされています。
  • 1183年11月17日(寿永2年閏10月1日):金環食 平家物語や源平盛衰記に記されている水島の合戦のさなかに起こった日食。水島での食分は0.93とされています。陰陽寮を擁する朝廷側の平家はこの日、日食が起こることを知っていて、太陽が欠けていくことに恐れ混乱する木曽源氏に対して戦いを有利に進め平家が勝利したという説もあるようです。以下は、源平盛衰記の記述。「寿永二年閏十月一日(1183年11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄(にわか)に曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵(つわもの)どもはかねて知りにければ、いよいよ時(の声)をつくりて、重ねて攻め戦う。」
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